コラム

 

このコラムでは、折々に思ったことなどを中国語対訳もまじえ書いてみようと思います。同意が得られれば受講者の中国語作文なども掲載してみようと考えています。 

  • 2019年5月3日:「ホームページ再開について」 → 本文へ
  • 2019年8月17日:「映画-覇王別妃をみて」 → 本文へ 
  • 2020年1月2日:「西安之旅」 → 本文へ 
  • 2021年4月29日:「映画-春江暖水に寄せて」 → 本文へ

 ・2019年5月3日

日本語学校での勤務が一段落したことを機に、十数年も更新せず、ほったらかしにしてあったホームページをもう一度作り直してみることにしました。同時にこれをきっかけに、今、そしてこれから中国語を学ぼうという方にどのような中国語レッスンをしていけばよいのか、考えを整理してみようと思います。(望月)

 这个网页自2006年发表以来,已经十几年没有更新过了,今年,日语学校的工作告了一个段落,故决定借此契机,重新制作“中国语工房”的网页,同时也想认真地考虑一下这以后将如何为想学习汉语的各位提供更好、更有效果的汉语课程。

 


・2019年8月17日 

 台風来襲で、計画していたこの夏の小旅行を取りやめた。そこでできた時間で中国映画を1本観た。ちん凱歌がいか1991年の作品「覇王はおうべっ」だ。今回はテレビで録画したものを観たのだが、もちろん当時、映画館で上映したものも観、さらにこの間に1回は見ている。ただ今回は本当に集中して観た。そして改めて思った。「自分が見た中国映画の中では、「覇王別妃」を超えるものはない」と。たぶん、過去2回は、中国語を始めてあまり時間もたっていない頃で、ストーリーや人物の心情変化など以上に、この映画を通して描かれる時代背景や中国の人々の生活を理解しようとしていた気がする。 

 今回は違った。中国社会や近代史にある程度の理解ができてきているためか、純粋にストーリーの中に入っていけた。時代の流れに翻弄され変わっていく二人の京劇俳優とその二人を取りまく人々の心。そして時代が流れても変わらないもの。3人のメインキャスト、魂で演じている。目の前に展開されていくシーンがフィクションなのか現実なのか境界を失わせるほど入り込めた。カメラ(映像)も古臭さを感じさせない。

 

一時期、北京の(フー)(トン)で生活していたことがある。自分にとって胡同の「原風景」がある。それは、胡同のどこからか流れてくる京劇の歌曲だ。近所の家がテレビを見ている音が漏れ伝わってきていたものなのか、胡同のエンジュの木陰をぶらぶら歩く年寄りが手にしたラジオから流れていたものなのか。いや実際にはそんな体験はなく、ただ自分の中で勝手に作り上げたものなのたかもしれない。

 

映画「覇王別妃」、京劇。それらが、北京の胡同での生活を思い起こさせた。(望月)

 

    暑假的小旅行,因不能去了。用突然多出来的时间,看了一个中国影,1991陈凯演的《霸王别姬》。是在电视的,整整三个小,平时还真没有么一整儿的时间,所以下来就一直放在那儿。其实这在日本上映的候我就看了,

后来又看一遍,也震憾,也感,但是都没有次,在台风袭来的午后集中精神看的么震憾,么有触。我再一次得,到止我看的中国影里,没有一部能超过这影!

    可能,上两次看的候,学汉语时间还仅仅看懂故事情就用尽了所有的力气。不同了,中国近代社会、近代史,二十多年一点儿一点儿累起来的理解,帮助我利地入了《霸王别姬》的故事。两位京,程蝶衣和段小楼的人生,被代的迁搞得面目全非,周的人物也是随之去,然而就在与此同影仍然在强着一种“从一而”的不个“从一而”,程蝶衣拿出了自己的生命。

    三位主演把程蝶衣、段小楼和菊仙演得出神入化,得不知眼前屏幕上的一切是幻是真,有得比真真。影的技也妙不可言,虽是近三十年前的影,但仍然人非常新的感

 

   我曾在北京的胡同里生活一个期,心目中有一种胡同的“原景”。那便是在胡同里随流淌着的京,搞不清是从居家电视出来的,是在胡同里大槐底下遛弯儿的大手中提着的小收音机里出来的。再想起来,其也未过这样的体,不是自己心中的一种情结罢了。

   

    《霸王别姬》着实让怀念起了很多西。(訳:竺)

 

 

 


・2020年1月2日

 冬の西安を訪れた。

 我々ふたりは中国とかかわりが深い生活をしているとはいえ、それほど多くの中国の場所を訪れたことがあるわけではない。自分に限って言えば、中国に関心を持つようになって以来、歴史文化題材の本、漢詩、ドキュメンタリー、映画などで幾度となく目にし、耳にしてきた、日本とは切っても切り離せない都市である西安でさえ訪れたことがなかった。しかし、この都市にはやはり一度は行っておかなければならないという思いはあった。さらにずっと関心を抱いてきたかの「空海」が多くの艱難を冒してまで足を踏み入れた「唐の長安」、現在の西安に自分も立ってみたかった。

 今回の西安行は、これまで敬遠してきたツアー旅行だった。それでもツアーに参加したのは、形式はどうであれ西安に行くきっかけ、行くべき「時」が来たのだと感じたからだ。

 ツアーでは、日本人になじみの深い名所旧跡などの観光スポットと想像通りのショッピングが何か所かスケジューリングされていた。しかし博物館の展示品は別として、観光地としての名所旧跡にある銅像、モニュメント、記念碑の類からは強く心を動かされるものはなく、「ふ~ん、今の西安ってこんな感じなのか」という程度の感想しか抱かなかった。もちろん現在の西安市と中国史に出てくる長安はまったくの別空間、別次元のものかもしれないが、ただ、数限りない文物や遺構が今なお発掘され続け、考古学上の新しい発見や考証も不断に更新されている西安。現在の我々が踏みしめた西安の足下には膨大な時間と無数の人間の思いが幾層にも積み重なっているのだということだけは強く感じた。言い換えれば、それは、現在を生きる一個の日本人(中国人にしても同じかもしれない)が言葉で表現できるようなものではない、中国という土地の、何か空恐ろしいような、身震いするような計り知れない深さだった。

 今回のコラムの最後に、ある中国人作家の一篇を載せてみたい。興味のある方は辞書を片手に日本語訳にチャレンジしてみてください。   ( 望月 

 

余秋雨:想起中日友好的公元734年

中国网 | 时间: 2006-07-25  | 文章来源: 人民日报

 

     历史上,最重要的年代有时最容易被遗忘。

     我要说的是公元734年。

     这一年,李白34岁,正是盛年,刚结婚,却又走了很多地方。王维大概也是34岁。杜甫年轻一点,这年23岁,也在各地游历。世界级的大师全都年轻在一时、一处,今天想来还让人倾心。那时唐代民富国强,天下安适,杜甫曾这样描写一路所见:“稻米流脂粟米白,公私仓廪俱丰实。九州道路无豺虎,远行不劳吉日出。”

     就在这一年的年初,一位日本学者在长安去世了。他叫井真成,比李白和王维大两岁。他是19岁那年与阿倍仲麻吕一起到中国来的,阿倍仲麻吕的中国名字叫晁衡,与李白和王维同岁,后来又成了他们的好朋友。李白的《哭晁卿衡》名传千古。

     这是一个充满了青春友情的伟大时代。在那群年轻人中,还有一些令人难忘的日本朋友。在李白、王维看来,这些同龄的日本朋友情同手足,所不同的是,他们的家乡比较远,隔着大海。这年,日本朋友井真成永远把自己的身体托付给中国了,后来,阿倍仲麻吕也是在中国结束生命的。

     当然,更多的是回去了。就在井真成去世后不久,有一个与井真成、阿倍仲麻吕一起结伴到中国来的吉备真备回国了,他大一点,比井真成大4岁,比阿倍仲麻吕、李白、王维大6岁,基本上都算同龄人。吉备真备从中国带回日本大量的汉文典籍,后来一直作官,升到日本朝廷的右大臣,足以左右朝野的文化思维。

     当时在中国,也是上上下下文气勃郁、襟怀开阔。连皇帝唐玄(Xuán)宗(zōng)也愉快地注视着这些年轻的文化天才,以及这些天才们边上的日本朋友。734年唐玄宗得知井真成去世的消息后,立即下诏追封官职并予以厚葬。厚葬的墓志铭上郑重地记下井真成的祖国“日本”,并根据唐玄宗的吊伤之情写道:“形既埋于异土,魂庶归于故乡。”

     就这样,隆重地葬到了历史深处。

     坟墓渐渐地被时间的尘土所淹没。尘土间,历史快速而纷乱地行进着。

     直到一千两百七十年之后的2004年,墓志铭神奇地出土了。再过一年,墓志铭运到日本东京展出。井真成也算是以最辉煌的仪式返回故乡了,只是迟了一点。

     正是在这块墓志铭上日本朋友看到了迄今最早对“日本”国号的记载。

     那天下午,我在东京国立博物馆,站在离这块墓志铭很近的地方。很多日本朋友在久久地排队,轻轻地移步。日中友好协会会长平山郁夫先生站在那里大声地说:“21世纪的今天,日中两国的关系出现了一些坎坷,不少有识之士为之担忧。对我来说,墓志铭的发现,就像听到了超越一千二百年的声音,呼唤日中两国人民要友好相处!”

     此话正合我意。第二天,我便与妻子赶到镰仓平山郁夫先生家拜访,希望与他更多地交换看法。

     平山郁夫先生今年75岁了,是一位闻名国际的大画家,而他艺术成就的最高峰,是有关丝绸之路的系列。我家本来就藏有他的画集,这次他又送给我们一册。他把唐代以来的那条友谊之路、沟通之路画得无比安静,并以安静呼唤永恒。

     那天我们谈得很多、很久。我也是旅行者,走过他所画的那条路,因此话题很多。可惜在我走过之后,那条古代友谊之路的中东、中亚、南亚一段,现在已经完全走不通了。于是我们只能在声声叹息中讨论东方美学。因为只有美,才能最终地嘲笑暴虐。

     顺着那次谈话的思路,几天后我又一次到了京都和奈良,去考察那里从唐代和宋代带来并留下的建筑、美术、文化、宗教遗迹。平心而论,从保存的完整、准确、精细、科学而言,超过我们中国。唐宋风范在这里又与日本传统的原生态美学相融合,在东方美学的充分体现上,京都好几个以寺庙为中心的园林,几乎达到了至高境界。

     与以前每次来日本一样,这次我走了很多城市乡村,一路上遇到过大量的日本文化人和普通市民。听下来,几乎没有一个忘记了唐代,没有一个不歌颂友情,没有一个不谴责战争,没有一个不企盼和平。尤其在京都立命馆大学的和平博物馆里,大量材料对军国主义和侵略战争的批判,在力度上甚至超过被侵略国的同类展览。和平博物馆用让人痛心疾首的一系列实物展示了一群年轻的生命一旦被误导,将会对邻邦同龄人造成多大的伤害,而且,最后也都伤害了自己。因此,和平和友谊,是唯一的选择。

     由此,我又想起了井真成先生,想起了那个了不起的年份:公元734年。

   (作者:余秋雨) 

 


中国映画「春江水暖」に寄せて

 

3月半ば、中国語教室の受講者の方から紹介され、顧暁剛監督作品「春江水暖」を観た。その後、この映画の舞台になっている浙江省杭州市富陽と富春江について調べてみると、この地に関係する様々なことがらが分かり興味深かった。例えば、空海が乗船していた遣唐使船が難破し福建に流れ着いた後、空海らが福建から長安に向かう際ここを通っていること。大陸と台湾の博物館に別々に所蔵されている断ち切られた山水画「富春山居図」はこの地を描いたものであることなどだ。

 

そしてもう一つ。この映画をきっかけに、文学者「郁達夫1896年ー1945年)」が富陽の出身だということを知った。郁達夫の作品を読んだことがあるわけではなく、ただ留学時代の「大学語文」というテキストに彼の散文「故都的秋」が載っていて、なぜかその文章がやけに気に入ってしまったというだけのことだが。北京にいたこともあり、この散文が描写している秋の空気感は身に染み、ふと気づく街の片隅の秋は「時代は違っても、彼と同じ空間を共有している」という感覚を持った。また会話や発音が苦手だった自分は、この文の冒頭を繰り返し朗読し、何とか中国語のリズムや感じをつかもうとしていたことも思い出した。

 

 

「春江水暖」という映画をきっかけにいろいろなことに思いをはせた。ある一つのことが自分の中にある多くの事を思い起こさせる、これは面白い。最後に、今季節は春本番に向かいつつあり、中国でも43日は「清明節」、また「踏青」などという詩的なことばがある季節とは真逆かもしれないが、郁達夫の「故都的秋」の冒頭を紹介させてもらおうと思う。興味あれば声に出して読んでみてはいかが。     202141

 

三月中旬,中国工房的学生告我,静的一个影院正在上映中国影《春江水暖》,演叫顾晓刚,没怎么听说过。看了以后,片子不,于是了一下影故事的舞台,也是影的拍地:浙江省杭州市的富阳以及富春江,没想到,弄清楚了很多事情,把我心中的一些支离的断片到了一起,空海乘坐的遣唐使帆船在海上遇,船破漏水后漂到福建,之后空海从福建启程徒步前往安,时经过了富阳。另外,有一幅描画富春江景的著名卷山水画,因乱被分两截,一半收藏在台湾的博物,一半收藏在大(杭州)的博物……。

另外,我还发现中国有名的人郁达夫(1896-1945年)原来是富阳出身。我留学的候,在一个叫《大学文》的本中,读过他的一篇名叫″故都的秋″的散文,不知什么特别喜住在北京,正是秋天,一日,站在秋意珊的街角,切切实实地感到了他散文中描写的那种北京秋天的空气感,突然生了一种跨越了空,与他共享了同一空的奇妙感憾的是那我的汉语不能随心所欲,了找到汉语奏感,不知把篇散文的开一段反复念了多少遍,至今仍记忆犹新。

 

由《春江水暖》影而引出的想和感慨,人心温暖,同得很有意思。

日本在已是春意盎然,中国也上就是清明了。在这样候,大家介推荐郁达夫的″故都的秋″,未免有些不合时节,不借着春江水暖的感是把篇散文的开部分放在工房的网上了,如果大家也有兴趣的,就放出声音慢慢地着念念吧。              2021年清明前夕

                                                                  郁达夫《故都的秋》

 

秋天,无论在什么地方的秋天,总是好的;可是啊,北国的秋,却特别地来得清,来得静,来得悲凉。我的不远千里,要从杭州赶上青岛,更要从青岛赶上北平来的理由,也不过想饱尝一尝这“秋”,这故都的秋味。

江南,秋当然也是有的,但草木凋得慢,空气来得润,天的颜色显得淡,并且又时常多雨而少风;一个人夹在苏州上海杭州,或厦门香港广州的市民中间,混混沌沌地过去,只能感到一点点清凉,秋的味,秋的色,秋的意境与姿态,总看不饱,尝不透,赏玩不到十足。秋并不是名花,也并不是美酒,那一种半开、半醉的状态,在领略秋的过程上,是不合适的。

不逢北国之秋,已将近十余年了。在南方每年到了秋天,总要想起陶然亭的芦花,钓鱼台的柳影,西山的虫唱,玉泉的夜月,潭柘寺的钟声。在北平即使不出门去吧,就是在皇城人海之中,租人家一椽破屋来住着,早晨起来,泡一碗浓茶,向院子一坐,你也能看得到很高很高的碧绿的天色,听得到青天下驯鸽的飞声。从槐树叶底,朝东细数着一丝一丝漏下来的日光,或在破壁腰中,静对着像喇叭似的牵牛花(朝荣)的蓝朵,自然而然地也能够感觉到十分的秋意。说到了牵牛花,我以为以蓝色或白色者为佳,紫黑色次之,淡红色最下。最好,还要在牵牛花底,教长着几根疏疏落落的尖细且长的秋草,使作陪衬。

 

北国的槐树,也是一种能便人联想起秋来的点辍。像花而又不是花的那一种落蕊,早晨起来,会铺得满地。脚踏上去,声音也没有,气味也没有,只能感出一点点极微细极柔软的触觉。扫街的在树影下一阵扫后,灰土上留下来的一条条扫帚的丝纹,看起来既觉得细腻,又觉得清闲,潜意识下并且还觉得有点儿落寞,古人所说的梧桐一叶而天下知秋的遥想,大约也就在这些深沉的地方。